Kururi-Castle
(39)
大多喜城
 




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久留里城は、甲斐源氏の支族である上総武田氏の祖、武田信長が康正元(1455)年に上総守護代に任ぜられ、

翌年に真里谷庁南の二城を築いた直後に築城されたと思われる。信長は三男・信房に久留里城を与えた。

この頃の久留里城は現在の久留里城の北方500mほどの峰続き上にあった。

その後、武田氏方の勝(すぐろ)真勝が城主のときに里見成義・により無血開城し里見の属城となったといわれる。

天文四(1535)年、武田氏の内紛に乗じて北進した里見義堯があらたに城地を定め久留里城を築き本拠とし、
長子義弘を
佐貫城に配置した。天文七(1538)年の第一次国府台合戦では里見父子は小田原北条氏・古河公方・
真里谷武田らの連合軍に敗れ一時本拠の安房に退去した。天文二十三(1554)年から翌年まで、
北条綱成を主力とする二万の軍が久留里城を包囲したが里見義堯・義弘父子はこれを撃退
永禄三(1560)年の北条氏の侵攻では、里見氏の将、正木大膳が長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請し、
謙信の関東出陣のきっかけとなった。
永禄七年(1564)一月の第二次国府台合戦では里見義弘軍は大敗し
二月には
池和田城六月には秋元城を陥とされ、十月には一時久留里城も陥落し、北条配下の小田小太郎が久留里在番を命じられているが、その後,里見氏が奪還、永禄十(1567)年三船山合戦、天正九(1581)年、天正十六(1588)年の北条氏政による包囲戦など
度々北条氏の攻撃を受けるが都度撃退している。天正十八(1590)年の北条氏滅亡後は里見氏は安房に閉塞し、
久留里城には
徳川譜代の大須賀(榊原)、土屋、酒井氏などが相次いで入封し、近世城郭となった。その後は黒田氏が支配し廃藩置県を迎えた。




 
 

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